音楽は,言葉ではとても表現できない情景や人の感情を表現することができます。小鳥の鳴き声、川のせせらぎ、雨や嵐の情景、そして人間の愛や憎悪、神や自然への感謝など、到底言葉では表現できないことを多彩な音色のメロディー・リズム・ハーモニーで表現し語る「語彙力」を持っています。
しかし、その音楽の表現は聴く人々にどれだけ伝わっていて、作曲家や演奏家のメッセージがどれだけ理解されているのか?大いに疑問に感じます。(長年音楽に親しんできた私自身も一部しか理解できていません)
音楽は単なるサウンドとしてただ感じるだけのものではなく、人が人に向けて「音で語る」ものであり、音楽それ自体が、人に対して理解してもらいたいというコミュニケーションの意思を持って発信されているものです。
つまり。本来音楽を通じて表現されるメッセージが聴く人に投げかけられ、聴く人が音楽を通じてそれを受け取るものなのです。
そのメッセージを受け取ることができれば、人はそれについて語り合い、分かち合い、他の人に伝えることができて、さらに音楽に対する興味と理解の輪が深まるのではないかと思います。
しかし、実際は、いい音楽に浸っていい時間だった、と思いながらコンサートホールを後にする人が大半なのだと思います。
そのような楽しみ方も勿論ありですが、やはり演奏者はメッセージを受け取って欲しいはずです。
最近私は、コンサートの帰りに、自分は今日の演奏からどのようなメッセージを受け取ったのだろうか?何かを学んだのだろうか?と想いを巡らせますが、大抵は「いい時間だった、やはりこういう時間は必要なのだ」と自分で納得するだけで、音楽の深淵の入り口にも立っていないことが殆どです。
聴いてもらっても判らないものは、言葉で伝えてもらうしかありません。
聴き手がそれぞれの想像を膨らませることができるように作曲家・演奏者のの想いや解釈などの必要な情報を、届ける人=演奏者が”言葉で”伝える必要があるのではないかと思うのです。
ビアニストの仲道郁代さんは演奏の前に、言葉でメッセージを伝える演奏会をされています。
まさに、音楽を理解してもらうためには、言葉が必要なのです。
一方、聴き手としては、演奏者がどういうメッセージを伝えたかったのだろう?と想像し、それを受け取る意思を持って、そのために曲の背景や構造などを予め理解しておくという積極的な姿勢での聴き方が必要なのではないかと思います。
「聴くだけではなく、理解して、他の人にも伝える」、こうした機会が増えてこそ、音楽が持つ本当の力を受け取ることができる人が増えるのだと思います。
音楽を聴いて、「なぜあれほど美しいんだろう?」「なぜあれほどワクワクしたんだろう?」などと問い、自分の中で答えを探してみると、作曲家や演奏家と対話ができるのではないでしょうか?
そこでは、音楽を理解するためのプロセスとしてやはり「言葉」が不可欠なのです。言葉を介さずとも表現者と対話ができるようになる究極の聴き方に到達するためのステップとして。。
音楽を聴けばわかることも大切にすべきですが、聴いても判らず語られて初めて解ることが多くあるのです。 よく子供に本物の音楽を聴かせることはとても大切なことです。そして、音楽体験の場では、様々な楽器の音を聴かせたり、場合によっては指揮をさせたりする貴重な体験もあります。そして、確かにその通りでそれをきっかけに音楽に興味を持ち、楽器を始める子供がいることも事実です。
しかし、言語を学ぶのと同じく、音楽にも理解するために必要な文法・ルールがあるのです。
一つ一つの単語(音)には高さ(音程)があり、音が並べられて小節ができ、小節が集まってフレーズができ、フレーズが集まって曲になる、それぞれのメロディーにリズムと和音が様々に変化して支えるという、重層的な建築のような構造で出来上がっていること、そしてそれぞれのパートをどういう楽器が担っているのかを曲の一部分でもいいので理解した上で指揮体験をすると、どれだけ音楽が興味深いものになるか?こうした教育が必要とされているのです。それは、子供だけでなく、大人にも。
そうすると、音楽の感じ取り方も大きく変わり、豊かになり、音楽が持つ様々な力を受け取ることができるようになるのです。